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日盲社協通信 令和7年(2025年)5月号(通巻90号)
編集人:福山博
発行人:長岡雄一
発行所:社会福祉法人 日本盲人社会福祉施設協議会(日盲社協)
National Council of the Agencies of the Welfare for the Blind (NCAWB)
http://www.ncawb.org/
もくじ
年を重ねるということ 理事長 長岡雄一
昭和で言えば百年という、区切りの良い年だと気づくのに、少し時間がかかりました。昨今、昭和がノスタルジックな意味合いで語られることが多いので、そんな風潮で初めて気づいたといっても言い過ぎではないかもしれません。自らの年齢を考えれば、簡単に導きだせたことなのに、やはり、「昭和」にあまりこだわりがないと意識も薄くなっていたのかもしれません。そんな中、高齢社会と言われて久しいのですが、そうした状況への自分なりの対応を、いまだに見いだせないことは歯がゆいばかりです。周囲を見渡すと、自分がそうだからなのでしょうが、高齢者ばかりが目につきます。また、身近なところにも超高齢者がいますので、「高齢」というものにどうしても関心を持たざるを得なくなります。
高齢者の状況を表すのに、「フレイル」や「アイフレイル」、さらには「ロコモ」であったりと、なるほどこうした状況が高齢化の意味するところかと合点がいきそうな表現や、その意味することを詳細に示してくれることで、高齢そのものの一端を理解することができます。ただ、やはり言葉より実際の姿を見、自分が体験することで、高齢への理解はより深まっていくことは間違いありません。
たとえば、周囲の超高齢者は、ドアのノブやロックを回すことが非常に苦手です。どちらに回すか分からないということではなく、力を入れすぎたりしているせいか、うまく回らないのです。また、つまむ動作も苦手なように見えます。巧緻性の問題もあるでしょうが、微妙な力の加減を失っている感じがします。多分、体全身にそんな現象が起きているのでしょう。そういう状況を見ると、高齢者のデイサービスなどは、もっと身近な動作の改善を目指してはくれないかと思ってしまいます。かく言う自分はどうかと言えば、歩幅が狭くなっていたり、目的を持った行動の手順を理解していながら、実際には途中で混乱して手順通りに進まなかったりと、自分自身が情けなくなることが少なくありません。これが「年を取ること」なのだと自分に言い聞かせてはいますが、なかなか開き直ることも受け入れることもできず、いまだに右往左往してしまいます。たぶん、高齢は障害に通じることだと思
います。ただ、当たり前のように、ほぼ誰にでも起きてくる「高齢」に比べると、障害の受け入れの難しさは、「高齢」以上のものかもしれません。当然のごとく、開き直りも同様です。私達支援者は、障害当事者のほんのささいな日常生活における困難さを、もっと細かく理解しなくてはいけないのだと思います。そこが理解できて初めて、日常の些細な行動の支援のテーマを見つけることができるのではないかと思っています。
組織を強くする意識改革 常務理事 荒川明宏
皆さんは、毎年定期的に健康診断を受けていらっしゃると思います。血液検査の結果を見て、「食事に気をつけよう」「もう少し運動しよう」と最初は考えるものの、翌年、たとえ数値が少し悪化したとしても、同じように考えるだけで実際に行動に移す人は多くはないのではないでしょうか。
仮に数値が5%悪化したとすると、2年前と比べて約10%も悪化していることになります。しかし、人は自分自身を守るために都合の良い解釈をして、2年前のことは忘れ、1年前の5%の悪化だけを気にしがちです。
たった5%の悪化ですから、日々の生活の中で忘れ去ってしまい、また3年目の健康診断を迎えます。そしてある日突然、予想外の悪い結果が出て愕然とするのです。
組織も同様のことが言えるのではないでしょうか。1年前より実績が悪いと、組織は「環境のせい」にしがちです。自己負担の増加、高齢化に伴う人口減少など、マイナス要因を外部に求めればいくらでも出てきます。そして、「環境が好転すれば問題は解決する」と結論付けてしまうのです。これも健康診断と同じで、悪い結果は見たくないですし、誰も責任を取りたくないため、問題の本質を外部にすり替えることで安心しようとする心理が働きます。
令和6年(2024年)から社会は劇的な変化を迎えています。その一つがAIの急速な発展です。また、人手不足も深刻化しており、これはどの業界でも共通の課題と言えるでしょう。
そこで重要なのは「意識改革」です。これまでは、大きな組織は安泰だと考えられていましたが、今後はどのような大きな組織も、いつ経営危機に陥るかわかりません。その危機を回避するためには、従業員一人ひとりが、今の自分の役職よりも二つ上の視点で物事を捉えることが必要です。
例えば、「忙しい」と不満を漏らしていた人が、二つ上の役職になったと想定してみましょう。その状況でも同じように不満を言うでしょうか?
同僚にあまり積極的に業務に取り組まないAさんがいたとします。二つ上の役職になったあなたは、Aさんに対してどのように考えるでしょうか? 「あまり働かない人」と捉えるのではなく、「Aさんの能力を最大限に活かすにはどうすればよいか?」という視点で考えるのではないでしょうか?
そうなると、組織全体にどのような変化が生まれるでしょうか? 今まで見て見ぬふりをしていた小さな問題にも、積極的に改善に取り組む雰囲気が醸成されるのではないでしょうか?
このような組織がAIを効果的に活用すれば、他の組織には真似できない強みが生まれるはずです。
ぜひ、二つ上の視点に立って、日々の業務と思考に取り組んでみてください。(株式会社ラビット代表取締役社長)
教育と教養、あるいは「今日行く」と「今日用」 常務理事 吉川明
古くからの親しい友人と会うのは楽しい。
高齢者が集うと、決まって話題は、病気自慢であり、家の中に居場所がない嘆き節である。「コロナ禍」で閉じこもることが多くなり、「外出しないこと」を妻に嘆かれる。いまどき箒なるものはない家庭も多いが、まさに箒で掃かれるように外出することになる。みじめな外出である。
待ちわびた外出は、「昼飲み」であろう。高齢者には、明日の体調にこたえない「昼飲み」はいい。昼だから勢い元気に会話が弾む。最近の話題は、自動車免許証返上の話と認知症である。
確かに集中力と注意力の衰えを感じ、運転していてヒヤリハットが増えた。加えて、免許証更新に認知症テストがある。自分は大丈夫か不安である。免許証返上推進者もいれば、免許証返上で外出がめっきり減り、体力が低下し認知症にもよくない、という人もいる。
ここで先輩がひとこと。
「高齢者には『教育』と『教養』が大切だよ」。
「この年になって今更、『教育』と『教養』はないでしょう」と言うと、
「教育ではなく、『今日行く』ところと、『今日用』があること、が大切なんだ」。
確かに、お出かけとなれば、事前の準備をするし、健康でなければ出かけられない。頭も使えば体も動かす、健康的で前向きな脳の緊張となる。
仕事以外ろくに外出しなかった働きバチが定年となると「今日行く」と「今日用」が極端に減る。妻を見ていると、いろいろなコミュニティをもっていて出かける用が多彩だ。
「今日行く」と「今日用」は、高齢者にとっても大切だが、視覚障害者にとってはもっと大切である。
「今日行く」と「今日用」をつくることが、視覚障害者のリハビリテーションになるのではないか。
盲導犬のユーザーは、犬の散歩がかかせない。これも立派な「今日行く」と「今日用」であり、外に出れば出会いがある。糖尿病だった人のHbA1c(※)が低下し安定し、新たな挑戦を始めた人をたくさん見てきた。
リハビリテーション事業の考え方、アプローチを見直す必要があるのではないだろうか。
※HbA1c(ヘモグロビンエーワンシー)は、血液中のヘモグロビンとブドウ糖が結合した割合を表す数値。糖尿病の診断や血糖コントロールの評価に用いられ、HbA1cが高いほど、平均的な血糖値が高いことを示し、糖尿病の可能性や合併症のリスクが高まる可能性がある。(日本盲導犬協会顧問)
第73回全国盲人福祉施設大会(石川大会)へのご参加をお待ちしています。
社会福祉法人石川県視覚障害者協会 理事長 米島芳文
今年の春は気温が低い日が続き、金沢市の兼六園や金沢城公園の桜も長く楽しむことができました。
また、兼六園梅林では梅の開花が遅れ、桜の開花と重なり、梅と桜の花の競演が見られ、1年で最も華やかな季節でした。
しかし、金沢城の石垣は能登半島地震により一部が崩れ、復旧には15年がかかるといわれています。
一方、能登半島では地震や豪雨により被災された方向けの仮設住宅の建設が進み、復興に向けての様々な取り組みが始まりました。1日も早い復興が実現されるよう願っています。
昨年秋、日盲社協長岡雄一理事長から「全国大会の開催により能登半島の復興を後押ししたい」とのお話をお伺いし、第73回全国盲人福祉施設大会(石川大会)を、11月27日(木)・28日(金)の両日にわたり、金沢駅前のANAクラウンプラザホテル金沢(金沢市昭和町16?3、電話076-224-6111)を会場に、開催させていただくことといたしました。
今回は、「加賀の文化と能登の復興」をテーマに準備を進めています。
大会開催期間は、雪吊りの美しい兼六園の風景と日本海の冬の味を堪能していただくなど、金沢を満喫できる良い季節です。
また、大会終了後は、和倉温泉など能登半島にも足を伸ばし、能登の復興を感じていただければ幸いに存じます。
ぜひ、多くの皆さまにご参加いただき、能登半島の復興に向けて後押ししていただければと願っております。
◆大会主管施設運営法人◆
社会福祉法人 石川県視覚障害者協会
〒920-0862金沢市芳斉1丁目15-26
TEL:076-222-8781 (9~17時)
FAX:076-222-1821
(特別寄稿)日盲社協盲人用具部会 ― 浜松盲人福祉研究会の70年とこれから ―(株)アメディア代表取締役 望月優
盲人福祉研究会会長/NPO法人六星・ウイズ相談役 斯波千秋
1.ある出会いから
静岡県浜松市で白杖をはじめとする視覚障害者が必要とし、使うことで、見えない見えにくいという不自由・不便を軽減する道具、今でいう福祉機器を開発製作し、全国へ普及する事業を70余年継続し、現在にいたる「盲人福祉研究会」をご紹介します。
はじめに盲人福祉研究会の創設者である筆者の父・斯波穏は明治33年(1900年)東京で生まれました。物作りが好きで、やんちゃでトンチの利く子供だったそうです。
大正6年(1917年)東京本郷湯島にできた自動車修理工場アート工業に丁稚奉公に入り、自動車修理を通して機械設計や金属加工技術を身につけました。ここで6歳年少の自動車大好きでやんちゃな15歳の少年が浜松の山奥から丁稚奉公にやってきました。それが世界のホンダ(本田技研工業)の創設者である本田宗一郎でした。
まだ交通量の少ない時代に、自動車を運転し大きな穴に落ち、交番の警官と引き上げたとか、大正12年(1923年)の関東大震災の時にお客の外車を避難させるために焼け野原を走ったエピソードもあります。
昭和16年(1941年)に太平洋戦争が始まり、昭和18年(1943年)には東京も危うくなり斯波家は岩手県盛岡市へ、本田宗一郎は浜松へ疎開します。盛岡では農地を購入し、りんごを植え付け、翌年には生まれた姉と男の子3人との家族6人で大変な時を過ごしました。母はよく「私の青春は岩手の雪とともに消えた」と話していました。
昭和24年(1949年)の10月24日初霜の日に私が生まれました。秋に生まれ、最後の子供に女の子を望んで「千秋楽」の千秋と名付けたのですが4人目の男子でした。
疎開から7年の時が流れ、植え付けたりんごの木もようやく花が咲き始めた頃、本田宗一郎から「浜松で一緒にやろう」との連絡がありました。彼は昭和21年(1946年)に浜松で「本田技研工業」を立ち上げ、これからという時でした。私が2歳の時に高校生の次男をりんご畑の管理のために盛岡に残し、一家は浜松へ移住します。その後、父はホンダの浜松支店長となります。
ある時、父と本田が一緒に出張の旅先で、仕事を終え、宿であん摩を頼み、揉まれながらエンジンの話をしていると、あん摩さんが「難しい話をしておいでだが、私の話も聞いてください」と話しだしました。
「私は目が見えませんから、この宿にくるのに自転車の後ろに乗せてもらってきました。しかし、途中で竹の杖を車輪に刺してしまい、杖は折れ、自転車も壊れました。ついては、この長い杖を使わない時に邪魔にならないようにできませんか」。この二人は「できないか?」と言われると「できない!」とは言えない習性をもっていました。
父は翌朝近くの釣り道具屋へ行き、竹の釣り竿を加工してゴム紐を通し、折り畳みの杖を作り、あん摩さんに進呈しました。
2.人生が変わった
昭和29年(1954年)、父は定年でホンダを退社します。それまでは浜松支店長として大きな門構えの家に住んでいましたが生活は一変し、郊外の借家住まいになりました。55歳の父は次の仕事を模索しており、その時に思い出したのが、折りたたみ杖です。
地元の盲学校や盲人会へ出向き、意見を求め、同年「盲人福祉研究会」を設立し、本格的に盲人用具の研究・開発に取り組み始めました。
試作を重ねたイタヤカエデ材による木製4段折りたたみ杖は一本一本白色ラッカーで何度も重ね塗りし、中にゴムを通し、握り柄と石突きを組み立てて完成。使用者の身長に合うよう長短4種類を発売しました。
昭和31年(1956年)には折りたたみ方式が専売特許権を取り、全国の盲学校や盲人会へと販路を広げます。また、時の厚生大臣より「愛の杖」と命名され、翌年には日本盲人会連合を総代理店とする契約を結んでいます。
3.そもそも白杖について
当時の白杖の使い方は今と違います。白杖の長さの基準はその人のお臍の高さでした。そのため当初から寸法基準をSの小サイズが88cm、Mの中サイズが93cm、Lの大サイズが97cm、LLの特大サイズが103cmとしていました。杖の握り柄は果物のイチジクの形。丸い部分のトップ部に手の平が当たるように上から「わしづかみ」にし、杖は垂直にして、石突き部でつま先の20cmほど先を2~3ヶ所突いて確認しながら歩を進める方法が一般的でした。ただ、その頃の社会は今ほど忙しくなく、道路整備もなされず、車輛も多くなかったため、みんな自己流で歩いていました。
ところで世界中に視覚障害者が白い杖を使うことが広まったのは、昭和5年(1930年)にヘレン・ケラー女史の話に感動した米国のペオリア・ライオンズクラブが当時フランスで使われていた白杖を世に広めようと、ペオリア市の視覚障害者に無料で白杖を配布したことが始まりです。この白杖普及運動が全米のライオンズクラブ、国際ライオンズクラブに伝わり、以来ライオンズクラブは視覚障害者への支援に力を注いでいます。
さて、専売特許の「木製4段折りたたみ白杖・愛の杖」は全国に知られるようになりましたが、あまりにも狭い市場なので、苦しい経営は続きました。
米国の白杖普及運動は日本にも影響を与え、時々50本単位のまとまった注文が各地のライオンズクラブからありました。すると家族中で喜び、できた白杖の上部に金属製のライオンズのエンブレムを小さな釘で打ち付けました。
父は白杖作りで忙しい日々でしたが、日曜日には地元浜松や静岡県の盲人会や鍼灸師会の会合に積極的に参加し、いろいろな手伝いをして繋がりを深めました。そして視覚障害者のニーズを見つけ、新しい製品を作りました。
4.日盲社協史の中の用具部会
昭和28年(1953年)9月に視覚障害に関わる32施設が集まり、日本盲人社会福祉施設協議会が発足し、翌年に「盲人更生要具研究部」が発足し、昭和36年(1961年)に「盲人更生要具事業部」と変わります。
盲人福祉研究会がいつ日盲社協に加盟したのかは記録が残っていませんが、昭和32年(1957年)には日本盲人会連合を総代理店として契約を結んでいるので、この時点では加盟していたものと思われます。
昭和38年(1963年)7月の『日盲社協会員施設要覧』には盲人更生要具事業部の名簿には以下の6社が記載されています。
①弘誓社(東京)代表中村信男:点字タイプライター(ライトブレーラー)製造販売
②髙橋盲具研究所(東京)代表髙橋光雄:プラスチック加工による盲具開発
③仲村点字器製作所(東京)代表仲村謙次:明治34年(1901年)創業各種点字器・点字タイプライター製造販売
④日本更生要具研究所(東京)代表大北利雄:盲人要具の研究開発試作
⑤日本盲導犬協会(東京)代表相馬雄二:盲導犬の訓練
⑥盲人福祉研究会(浜松)代表斯波穏:各種白杖・将棋板・治療鍼など製造販売
時の流れとともに消えてしまう事業所もあり、継続している事業所では世代交代もあります。昭和47年(1972年)に私が父の後継となった時、日盲社協全国大会の場で、父が仲村点字器製作所の仲村茂男社長に「これからは息子が後を継ぐから、よろしくご指導ください」とお願いし、それから20年の時を経て平成5年(1993年)の全国大会の場で仲村茂男氏が私に「千秋さん、これから仲村点字器は息子・哲郎が引き継ぎますからよろしくお願いします」と言われたのでした。
日盲社協「盲人用具部会」はこの6事業所から、昭和30年代以降点字ブロックを開発した岡山県の安全交通試験研究センターと京都の点字案内板などのサン工芸が加入し、10事業所を超えるようになりました。そして昭和40年代になるとICT・デジタルの時代となり、音声読み上げや点字プリンター、パソコンソフト関連の事業所が多く加入し、20事業所近くになりました。
盲人用具部会の会合は日盲社協全国大会の時と、別に年1・2回東京で開催していましたが、この頃から地方でも研修会や用具の展示会を開く必要があるとの意見で、浜松で研修会を開くことになりました。
昭和46年(1971年)、秋の奥浜名湖国民宿舎に宿を取り、10事業所以上が集まり、それぞれが近況を報告し問題点や行政への要望などを熱く語り合い、翌日はみかん狩りを楽しみました。
会員事業所が開発した福祉用具を地方の視覚障害者が体験し、また当事者のニーズを受け止め製品化するのが盲人用具部会の使命です。そのためには各地の盲人会や盲人施設と密に連絡を取りました。そしてこの年から年に1・2回、日盲社協大会の会場と要望のあった地方へ出向いての盲人用具展示会が始まりました。
特に記憶に残っているのは、山形での東北盲人会の大会に合わせて開催した用具部会と地元の皆さんとの討論会です。点字ブロックの敷設指針の統一を求める声と「いま世の中ではウォーキングが盛んで万歩計を腰につけている。私達も何歩歩いたか分かる万歩計が欲しい」との声がありました。
私は知り合いの電子機器メーカーに相談し、何度も試作を重ね、「音声歩数計おしゃべり散歩」を製品化し、大変喜ばれました。
音で方位の分かる方位磁石や新しい形の白杖なども各地での討論会や展示会からの要望で製品化したものです。
以後、北陸・四国・九州からの要望で機器展を開催し、多くの視覚障害者と用具を通してコミュニケーションを深めました。
5.より大きな盲人用具展
平成16年(2004年)に用具部会の会員から米国で開催されているCSUN(シーサン)のような大規模な視覚障害者用福祉機器展を盲人用具部会で開かないかと相談がありました。当時、盲人用具部会長だった私は「各地に出向き視覚障害者と会話しながらの展示会を大切に思っているので、用具部会としては資金的な面からも同意しかねる」と答えました。その後、用具部会の有志が独自に集まり、「サイトワールド」として東京で毎年11月1~3日に開催されることになりました。用具部会以外の多くの事業所や研究機関などが実行委員会を結成し、毎回3,000人を超す来場者数の素晴らしい一大イベントとして好評を博しています。
ICTやAIの急速な進化により、一台のスマートフォンが文書を、色を、風景や写真を正確に読む時代です。しかし、一方ではパソコンやスマホを使いこなせない人達は取り残されます。また会場まで出向くことのできない地方の方もいます。用具部会はサイトワールドを支援するとともに、やはり地方へ出向き視覚障害者と直接交流し、不便・不自由の声を拾い、「こうなるといいな!」の声を直接受け取る地方の展示会も大切にしたいと思っています。
6.父の思いを発見
昭和38年(1963年)の『日盲社協会員施設要覧』には施設概要だけではなく、将来の計画の欄があり、当時の父の将来への思いが記してありました。それを知らずに私は50年間夢中で走ってきました。そして今の盲人福祉研究会とNPO法人六星・ウイズの現状を見ると、確かに私は父の子であることを再認識します。以下が父の「将来の計画」です(昭和38年『日盲社協会員施設要覧』より)
①盲人福祉研究会を拡充して法人組織とする。
②あらゆる盲人要具を取り扱い、既存の要具を改良すべき物は総べて研究改良する。
③当研究会を盲人が新たに欲求する物が何であるかを易く聞き入れる機関とし、直ちにそれらの研究・考案・製作がなされ、盲人の希望を満たしうるようにしたい。
④政治問題を始め、経済・法律および日常生活に関する如何なる相談に応じ、親身に処理に当たることのできる会としたい。
⑤盲人杖(折りたたみ式)をオールプラスチックにすべく目下研究中である。プラスチック製折りたたみ白杖は専売特許権を活かして、海外輸出を積極的に進め、盲人に対する福祉援助をさらに強めたい。
令和7年(2025年)、この五箇条の計画を全く知らず受け継いだ盲人福祉研究会とともにウイズの活動との波動を感じました。
7.歩行訓練士を目指すが
昭和47年(1972年)から日本ライトハウスで歩行訓練士の養成事業が始まりました。私は白杖を作ることを仕事にするためには使う人のことをよく知らなくてはと思い、すぐに応募しました。しかし、第一関門が四年制大学卒業が条件のため、あえなく拒否され、一念奮起して独学で視覚障害リハビリを学ぶことになりました。後々、その勉強が役に立ちました。昭和60年代になってから県内で盲人会と一緒にガイドボランティアの養成講座を度々開くようになりました。昭和63年(1988年)には静岡県から視覚障害者ガイドヘルパー養成研修の講師を依頼され、盲人福祉研究会の仕事と並行して県内各市町で講座を開きました。そのおかげで県内の多くの視覚障害者の人達と知り合い、多くのガイドヘルパーの人達と連携を深めました。また国の福祉の基本理念が、施設福祉から地域福祉へと移行することで各地に介護福祉専門学校ができるようになり、3校の専門学校と大学で障害福祉の非常勤講師を20年間勤めました。
また静岡県盲人会が毎年開いていた中途視覚障害を考える会のパネラーなどを引き受けることで、視覚障害リハビリテーション(視覚リハ)の重要性と他県に比べて静岡県の福祉レベルの低さに怒りを覚えるようにもなりました。日盲社協の活動で全国の視覚障害福祉の活発な活動を知り、視覚障害当事者である各県の盲人会や視覚障害者施設のリーダーの活動に大きな刺激を受け、静岡県に視覚リハの拠点を作る意欲が高まってきた昭和60年代でした。
毎日コツコツと白杖やいろいろな用具を作り販売するだけでなく、それらの用具を使う人達、また中途失明でそれらの情報にたどり着けない人達の社会復帰に視線が向くようになりました。近隣市町へはできるだけ福祉用具を直接手渡し、とくに中途視覚障害の人達の相談に乗る時には、音声時計をはじめとするちょっとした便利グッズを紹介することが信頼関係をつくることにつながりました。これらが後に視覚障害者の作業所建設へと繋がっていきました。
8.用具の開発製造から使う人へ
昭和47年(1972年)、高齢になった父の後継者として浜松へ戻り、白杖などの開発・製造・普及を続けました。また父同様、日盲連や日盲社協との繋がりを大事にし、同じく地元静岡県や浜松市、そして隣の愛知県や豊橋市の盲人会や鍼灸師会の皆さんと直接交流を続けました。日曜日の会合などボランティアの一人として身軽に動き、旅行などの企画にも参加し同行しました。
一方では、日盲社協の会員、また用具部会長として全国の視覚障害者の福祉を学びました。とりわけ日盲社協の第8代会長、理事長をされた松井新二郎先生には中途視覚障害者の苦しみ、悲しみ、そして諦めることの辛さを、しかし諦めることなく立ち上がる勇気を与えることの大切さを教えていただきました。今でいう視覚リハの哲学とその大切さを学んだのです。同時に、全国の視覚障害者福祉に関わる施設の代表の多くが視覚障害当事者であり、その力強い発言と着実な活動の進展を目の当たりにしてきました。多くの盲人会が独自の建物で点字図書館を開設したり、光道園のような重度の重複視覚障害者対象の施設を創設し、行政に真っ向から立ち向かう迫力ある姿をたくさん見ました。まさに日本の障害者福祉はこの迫力と知恵で視覚障害者自身が切り拓いてきたのです。
静岡県をみると盲老人入所施設と盲重複障害者の入所施設が各一ヶ所づつあるだけでした。国際障害者年をきっかけに施設福祉から地域福祉へ、そして障害者の社会参加と自立が語られる時代になったのに、入所施設があるのみ、そして仕事を持たず何もやっていない人達の多さに気付きました。静岡県盲人会の集まりや中途視覚障害を考える会などに積極的に参加し、視覚リハの施設の必要性を語り、県の担当にもぜひにと訴えましたが、反応は全くありませんでした。
また平成2年(1990年)、私が41歳の時に静岡県教育委員会の青年海外派遣事業に参加しスウェーデン・ドイツ・英国へ行くチャンスに恵まれました。福祉の考え方、視覚障害者の生活、そして盲学校がなくリソースセンターとなっていること、何よりスウェーデンで使われている白杖は全盲の高齢者がアシスタントを使って作っていることに大きなショックを受けました。それから数回スウェーデンを訪れ学びました。
9.いよいよウイズの始まり
浜松の進歩的な考えを持つ元盲学校教師を中心に若い仲間を集め、「浜松でライトハウスのような拠点を作ろう!」と話は盛り上がりました。県の福祉課、市の福祉課、盲人会に訴えても何も変わりません。県庁で話をしていて「それなら私が拠点を作る!」と言ってしまいました。
しかし、資金も政治力も何もありません。国際障害者年をきっかけに全国で養護学校を卒業したが、その後の生活の場がない。小さくても卒業後の居場所を作ろうと、全国で養護学校の先生や親の会が小さな作業所をつくる「小規模作業所運動」が広まっていました。平成5年(1993年)当時、全国に約4,000ヵ所も小規模授産所がありましたが、そのほとんどは知的障害者が対象でした。視覚障害者対象の入所施設の作業所はあるが、小規模通所は全くなかったのです。少ないながら、市や県から年間600万円の補助金もありましたので、何とかやろうと、まずは後援会をつくり資金を集めました。場所は盲人福祉研究会の作業所を提供しました。また作業は私の十八番の白杖をユーザーである視覚障害者自身が作るように技術を提供することにしました。
また、設立準備会で作業所の名前について話し合っていた時、浜松盲学校中等部の女の子が「今日英語の授業で習ったWith(ウイズ)がいい、みんなで一緒にやるのだから」の一言で決まりました。
とは言うものの、軽金属性4段折りたたみ白杖作りはカッターナイフや小刀、ヤスリなどを使っての細かい作業です。市内の視覚障害者数名に実験台になってもらい、作業台を作り、刃物は持ち方をしっかり練習しました。作業台にちょっとした切込みを付けることで正確に平ヤスリで対象物を削ることができました。6~7人の見えない仲間が汗を流しながら、「刃物はそ~っと扱う。そ~っとそ~っと」を繰り返すうちに怪我なく全員自分の白杖が完成しました。
自信をもった私達は翌年(1994年)から全国に「夏の白杖づくり合宿、自分の使う白杖を自分で作ろう!」と点字新聞、ラジオで呼びかけました。すると全国から中学生から70歳過ぎの方から盲学校の先生、女性まで20人以上の視覚障害者が申し込んできました。しかし小さな作業所です。どんなに詰め込んでも1回8人まで。1チーム8人の2泊3日を3回。沢山のボランティアさん達と一緒に真夏の暑い中の熱い作業です。お昼にはウナギを焼いてスタミナをつけ、夜はバーベキューとミニ音楽会、翌朝は自分で作った白杖で散歩をして、お昼の新幹線で帰り、その新幹線に次のチームの8人が乗ってくるのです。
このイベントは話題となり、以後JICA、盲留学生、平成11年(1999年)からはダスキンアジア太平洋障害者リーダー育成事業の合宿が定例コースとなりました。
また平成7年(1995年)1月17日早朝の阪神淡路大震災の時には、盲人福祉研究会職員と作業所ウイズの利用予定者で直杖や携帯用の白杖を500本を製作し、現地へ送りました。
作業所の目標は、①視覚障害者の居場所と仕事の場、②中途視覚障害者の相談から視覚障害リハビリの提供、③若い障害者リーダーの育成、④地域福祉の核となるとしました。
日本の障害者福祉は、日本盲人会連合を結成した視覚障害当事者が牽引してきました。ヘレン・ケラー来日も大きな力となりました。発言する、行動する視覚障害者が日本だけでなくアジアの障害者福祉にも大きな力を尽くしてきました。しかし弱視・中途障害・盲重複障害・高齢視覚障害、障害者就労などでは活動が広がらなかったのも事実ですし、残された大きな課題でした。
10.ウイズのスタート
平成8年(1996年)の4月、全国で初めての視覚障害者中心の小規模作業・授産所ウイズが開所しました。日盲連、日盲社協関係者、地域の盲人会やボランティアグループの方々が近隣の公民館ホールがいっぱいになるほど集まってくださいました。
スタートは3人の中途失明者と最重度盲重複の青年、私達に賛同してくださった元盲学校の教師と卒業生、そして半身マヒの高齢の男性を含む7人、職員は盲人福祉研究会の技術者2人とガイドヘルパー講座卒業生の女性と私の4人でのスタートでした。
「小さくて貧乏、だけど楽しく一生懸命」を合言葉に、主な作業は白杖づくりと点字名刺作りです。開所式には全国初ということで県内のメディアが10社程取材にきました。インタビューでの「どんな仕事をするのですか?」という質問に「記者の皆さんが最初のお客様です。皆さんの名刺を10枚づつ置いていってください。後程、点字名刺にしてお返しします。一枚10円ですから100円を添えて!」と応えました。
翌日から点字を覚えたい中途失明の青年が、お手本の社名・氏名・電話番号を左手で読みながら、右手で点字を打ち、何回も練習します。間違いがなくなったら、本物の名刺に一点一点慎重に点字を打ちます。10枚完成して100円。失明してから初めての収入となったのです。
また、白杖づくりは元盲人福祉研究会の職員が80%の作業をして、組み立てや簡単な作業をみんなで工夫し、おしゃべりをしながらやりました。ウイズの仕事にはいろいろな工夫があります。「できない」と決めつけず、どうやったらできるかを考え、いろいろな事に挑戦すること、そして見えなくなってできなくなったことができるようになり、そこで喜びと自信を得ることがウイズの視覚リハなのです。
この頃、PC技術が急速に進み、視覚障害者もパソコンを使う時代となりました。
浜松盲学校を卒業し、大学進学、そして留学までしている青年T君をなんとかこれからの障害者福祉のリーダーにしたいと考えました。市内の専門学校から中古のパソコンを3台寄付してもらい、毎週土曜日に彼を講師にパソコン講座を開き、そこでは盲学校の卒業生で市内で三療業で自立している多くの仲間が学びました。
元浜松盲学校教師で当時64歳のウイズを支える会会長の箏曲家・島津祐策氏も若者とともにパソコンの講座で苦労しながら学ばれました。この時に身につけたPC技術で、翌年から75歳になるまでの10年間で筝曲点字楽譜500曲をパソコンに入力する大業を成され、平成19年(2007年)にそのデータを日本点字図書館に寄贈されました。
真剣に私がウイズでやりたかったのが、視覚リハで、これは昭和35年(1960年)に米国・ボストンのトーマス・キャロルが「失明」と言う論文を書き、学問的系統立て、キャロルセンターという視覚リハの訓練センターを開設しました。
平成4年(1992年)に私は運良くこのセンターを訪れたことがあり、T君にもぜひここで学んでほしいと考えました。ちょうどその年の秋にカナダでWBU(世界盲人連合)の世界大会が予定されていました。WBUで福祉機器展を見て、ボストンのキャロルセンターを見学し、視覚リハを少しでも理解してもらいたいと彼との旅行を計画しました。そして、日盲社協用具部会にも声をかけたところ、数社が応じて下さり、楽しい学びの海外旅行となりました。その後、T君はウイズを卒業し、現在は東京で点字出版編集の仕事についています。
11.無謀な挑戦
点字の仕事は視覚障害者の読む権利を保障する大切な仕事であり、特に市で発行される広報誌の点字印刷は、行政の情報提供の義務と市民の情報を得る権利を保障するだけでなく、ウイズの安定した収入を得ることができる仕事です。
しかし、歩き出したばかりのウイズは印刷機はもちろん点字をしっかり扱える人材もいません。ところが、開所2年目の春、県庁福祉課から「斯波さんは点字印刷をやりたいと言っていたが、点字電話帳の仕事があるが受けませんか?」と電話がありました。もちろん技術も印刷機も、また人材もありません。断るのが当然ですが、一週間の猶予をいただいたのです。なんとこの一週間の内に偶然、二人の点字専門家の女性が浜松に転居してきたのです。
新潟からの女性は盲人会で点訳ボランティアをやっていて、浜松へ行くと言ったら、「それならば盲人福祉研究会の斯波を訪ねるように」と言われたとのこと。もう一人もウイズを紹介されてきました。印刷機は福祉会館から借りることとなり、無謀にも点字電話帳の印刷を受けてしまいました。この時も日本ライトハウスと日盲連の皆さまにご指導、ご協力をいただきました。
この点字電話帳の大仕事で、点字印刷技術を身につけ、また印刷機を買うこともでき、4年後には『広報はままつ』点字版受託につながりました。
12.人を生き返らせる視覚リハ
ウイズが知られるようになると、いろいろな相談が舞い込みました。45歳で失明し、会社を解雇され8年間家に閉じ籠った男性は元々金属加工の仕事をやっており、「ぜひウイズに自分で通いたい」と言うのです。
翌日の朝6時からの歩行訓練は、自宅からバス停へ、バスの乗り換えとウイズ近くのバス停から30分の自立歩行に3週間かかりました。ウイズでナイフやヤスリの使い方はもちろん他の作業も上手にこなし、生き生きと、まさに生き返ったのです。数年後、「あの家の中だけでの8年間はなんだったのかな?」と彼は自問しました。以来23年間彼は白杖製作に携わっています。
13.後継者現る
平成11年(1999年)2月、一人の若者が「見学させてください!」と訪ねてきました。ちょうど、盲留学生3人がウイズで白杖づくり研修をやっている最中だったので、「忙しいから手伝って!」とそのまま、ただ働きをさせてしまいました。聞けば、日本福祉大学を卒業したばかりで、保育士免許は取得したが、就職先はまだないというので、そのままウイズに就職しました。
その2年後、とても気の利く性格の良い男で見どころがあると感じ、私の果たせなかった「歩行訓練士」の養成に一年間大阪の日本ライトハウスへ出しました。
一年後、彼の養成研修修了を前に浜松市に対し、「これまで私が無償で20人近くの人達の歩行訓練をしてきたが、まだ市内には数百人の『自分で歩きたい!』と切望している視覚障害者がいる。新しい歩行訓練士の養成が終わり、いよいよウイズの仕事として歩行訓練をする。ついては他県のように『視覚障害者訓練事業』として補助金に加算して欲しい」旨を市議会と市長宛に提案しました。すると翌年から訓練事業費が付くようになり、その翌年は県も同様の事業を認可してくれました。
その後、ウイズは合計3人の歩行訓練士を雇用し、居場所・仕事の場・視覚リハ訓練の場へと進化することになります。
ウイズ開所準備から30年が過ぎ、私も75歳、これまでの活動を知り新しい法律のもとで厳しい事業運営をも知る彼が、ウイズの活動すべてを引き継ぐことになりました。
14.時代が大きく変わる
無認可事業の小規模作業所が10年過ぎた時、福祉の世界に大きな変革の波がやってきました。平成15年(2003年)の支援費制度と平成17年(2005年)の自立支援法です。多くの人達に選ばれることでウイズもそれなりに経営が安定することとなりました。そして平成18年(2006年)にはNPO法人格を取得し、自立支援法のもと就労継続B型事業所となりました。
この法律のできる直前に市内の住宅地の街づくり協議会の方から相談がありました。「住宅地の真ん中に1,000坪の市有地があり、市はそれをマンション業者に売ろうとしている。この土地は昭和初期に、今は日本を代表する福祉事業団の発祥の地、なんとかこの土地を生かして街を総合福祉の街にしたい」とのことでした。「大きな法人に声をかけたが全部断られた。もはやウイズさんしかない」と言うのです。
私は、ウイズ立ち上げの頃にお手伝いをしていた山の中の高齢者福祉の社会福祉法人に「街中に出てこないか」と声をかけ、残りの土地を児童公園にして、障害者福祉、児童福祉、高齢者福祉を住民と一緒に事業展開することでその地が総合福祉ゾーンになるとの企画書を一週間で書き上げ、街づくり協議会に提出してもらいました。
すると一発で議会を通過し、急遽第2ウイズを建設することとなりました。最初のウイズは若い中途失明者と盲重複の若者が中心。第2ウイズは大きな問題となっている高齢の視覚障害者と中途失明者を中心に活動をする方向で進めました。
15.デジタル化に対応、第3のウイズ
急速なPC技術の進化により、ウイズで点字印刷をしている『広報はままつ』も記事のほとんどが簡単な見出しだけとなり、「詳しくはホームページかQRコードを開いて」となっています。QRコードで膨大な量の情報を得ることができますが、点字では内容が分からないのです。PC技術が発達するのは良いことですが、技術の進歩の陰には必ず取り残される人がいるという事をしっかり見ないと「情報格差」が生まれます。スマホを使いこなす人はいいが、使えない視覚障害者・高齢者は切り捨てられてしまうのです。ウイズは「切り捨てのない社会づくり」がモットーです。
平成31年(2019年)に急遽JR浜松駅近くのビルの一室を借り、第3のウイズを開設しました。実施するのは国の「視覚障害者生活訓練指導」制度に基づく訓練事業です。浜松市内の視覚障害者だけでなく近隣の市町の視覚障害者も安心して通ってこられるように駅近くに設置しました。
しかし、一等地なので家賃は高く、また訓練事業は利用者の数で給付金が決まります。多くの人数をまとめて指導すれば給付も多くなりますが、視覚障害者の場合は多くがマンツーマンでの訓練となり、一日フルにやっても6人までが限界です。そのために赤字続きなのですが、なんとか智恵を出して運営ができるようにしなくてはなりません。
16.哲学はウイズが継承
父の代から続けてきた盲人福祉研究会の盲人用具製造と販売の事業は、少ないながらそれなりの金額になります。少しでも第3ウイズである「ウイズかじまち」の赤字を減らすべく、また私も75歳となり、昨年ウイズを引退したのですが、盲人福祉研究会の事業もすべてウイズかじまちに移行する時となりました。
昨年から「ウイズ用具部」という部署をつくり、ウイズでいろいろな技術を身につけた当事者の女性を職員として雇用し、事業を継続・発展させようと思っています。
米国のキャロルセンターで学んだのは、センターで訓練を受け技術を身につけた視覚障害者が次の視覚障害者に教えるというシステムでした。
いよいよ70年の歴史の盲人福祉研究会もあたらしい法律の下で活躍する若い人達にあらゆるノウハウを受け継ぎ、NPO法人六星・ウイズとして進化していくでしょう。
素晴らしい後継者に恵まれ、素晴らしい職員に恵まれ、この盲人福祉研究会の哲学が次へと継り、「視覚障害のことならウイズに繋がればいいよ!」と言われる相談から生活支援全般に対応できる事業所として発展して欲しいと思っています。
点字考案200年記念事業 ― 2025年大阪・関西万博への参加 ―
理事長 長岡雄一
点字考案200年記念事業については、令和7年(2025年)が、点字考案から200年にあたることから、日視連はじめ、日盲委や日盲社協、日点委などにより構成された記念事業実行委員会が、令和4年(2022年)から各種イベントを実施してきました。今回参加した大阪・関西万博も記念事業の一環としての参加になりました。
万博においては、「点字考案200年視覚障害者の世界を体験する」というテーマのイベントへの参加になっているので、点字にかかわらず、例えば盲導犬の体験や、視覚障害者柔道の紹介、ITを利用した歩行支援機器の紹介等、広範囲にわたった展示・体験の一つとなっており、「点字名刺づくり体験」を実施しました。
今回は、この万博における点字体験について、ご紹介したいと思います。
万博そのものは、木製の大屋根リングが話題となっていますが、多くのパビリオンは、そのリングの内側に作られています。
ただ、今回の会場は、リングの外にあったせいか、人が溢れていたリング内より比較的穏やかな雰囲気がありました。
名刺づくりは、基本的には晴眼者と視覚障害当事者が二人一組になって、来場された方に、点字の説明と書き方をお教えし、その後、一覧表を見ながら名前を書いていただき、当事者の方が、それを確認するという手順で進めました。
来場されたこと自体、点字への興味を持たれていることの証左かと思えますが、それでも、皆さん、ご自分の名前が打てたことを非常に喜んでいる姿が印象的でした。
来場者はもちろん日本の方が中心なのですが、名刺づくり体験コーナーに来場された方の中には外国の方もいらっしゃいました。
万博内では、多くの児童・生徒を見ることができましたが、残念なことに、集団での行動が中心となるせいか、体験まで足を運んでくれることはなかったように思います。文字としての点字が今後さらに一般に認知されるためにもこうした方々への働きかけの必要性を痛感した次第です。
令和6年度点字出版部会職員研修会
東京ヘレン・ケラー協会点字出版所長 大木俊治
日盲社協点字出版部会の職員研修会が1月23日(木)、24日(金)に京都市の京都ライトハウスで開かれました。19施設から60人を超える参加者がありました。
1日目は日本点字委員会の渡辺昭一会長、福井哲也副会長(日本ライトハウス点字情報技術センター顧問)、点字案内板などを作成している「サン工芸」の杉山欣司社長の3氏が講演しました。
「点字の現代的意義と近未来の展望を考える ― 点字考案200年の年を迎えて」と題して講演した渡辺氏は、韓国では「点字法」が制定されているが、日本では点字が文字と認められていないと訴え、明治時代に点字を文字として認めるよう請願が出されたが、当時の内閣が「点字は盲教育のための符号にすぎない」として採択しなかった歴史を紹介しました。その後、点字投票を実施するために公職選挙法で「政令で定める点字は文字とみなす」ことになったものの、さらに点字を正式な文字として認めるよう関係方面に働きかけていくとのことでした。また大阪・関西万博で点字をテーマにしたイベントがあることや、フランス、スペイン、ドイツなどで点字を世界無形文化遺産に登録しようとする動きがあることなどを紹介。最後に点字の電子化をどう広めていくかなどの課題を挙げました。
福井氏は「触図を巡る課題と展望」と題し、作図機を使うエンボス印刷のほか、紙にインキを印刷したあと加熱してインキを膨らませる発泡印刷、紫外線を照射してインキを固める紫外線硬化樹脂インキ印刷(UV印刷)などさまざまな製作方法を紹介。「文字に関しては表記法があるが触図にはガイドラインがない」「編集・制作技能の人材やノウハウの蓄積が不足しており、分かりやすい触図の研究が必要」といった課題を挙げながら、より良い触図製作には「晴眼の編集・校正担当者、製版士と触読校正者の密なる協同作業が必要。人材育成のカギも、この共同作業にある」と力説しました。また文部省認定『尋常小学算術第二学年児童用』(昭和12年1月15日)、『尋常小学算術書第五学年用』(昭和5年3月大阪毎日新聞社製)という、いずれも触図入りの貴重な点字教科書を披露しました。
2日目は小林鉄工所の小林博紀社長が「点字製版機のからくり」と題して、点が打刻される仕組みや開発の苦労、会社の現状や新しく開発した自動製版機を語りました。これは作図機能を有し、エーデルで描かれた図を特大・大・中・小の4種類の大きさの点で描くことができ、作図機できれいな円や三角形などの幾何学模様を作るのは、かなりの時間と気力を使うので、問題なく動作するようなら作図の心強い味方になるだろうと感じました。
午後は地下1階、地上4階の京都ライトハウスの施設見学で、視覚障害者だけでなく、就労支援や生活介護といったさまざまな人も利用する施設です。参加者の興味を引いたのは、自動製版機や作図機、印刷機が置いてある点字制作室で、施設ごとの方法の違いや特色に、質問が絶えることなく続きました。
以上、参加職員の報告書を基にまとめました。
令和6年度情報化対応支援者研修会 ― 相談支援コース・基礎 ―
徳島県立障がい者交流プラザ視聴覚障がい者支援センター 田村遥果
日盲社協情報サービス部会(又木勝人部会長)は、年に一度、視覚障害に関する基礎知識・支援方法に関する基礎を学びなおしたい初心者向けに「相談支援コース・基礎」研修会を開催しています。開催方式については、Zoomを用いたオンライン形式で行いました。
これはなるべく多くの地域から参加してもらい、支援する側の基礎的スキルの底上げをはかるとともに、相談支援の地域間格差をなくすことを目的としています。
今年度は、令和6年(2024年)12月12日(木)・13日(金)に、令和6年度情報化対応支援者研修会「相談支援コース・基礎」のタイトルで、1日目39名、2日目38名の受講生が参加しました。
研修会は年々定着してきており、毎年定員となりますが、今年は定員を増やしたにもかかわらず募集開始からほどなくして、定員に達しました。
第1日目(12月12日)
講義1は、仲泊聡(ネクストビジョン)による「視覚障害とは 眼疾患(最新の研究、治療)・身体障害者手帳について」
講義2は、堀内恭子(日本ライトハウス)による「視覚障害リハビリテーションとは 視覚障害者リハビリテーションの歴史と必要性」
講義3は、原田美貴(日本ライトハウス情報文化センター)による「視覚障害者が利用できるサービス補装具・日常生活用具の申請、その他のグッズ」
講義4は、住吉葉月(神戸アイライト協会)による「視覚障害者によくある困りごととその解決法 見え方・疾患での異なる問題点」
第2日目(12月13日)
講義5は、田中桂子(神戸アイセンター病院)による「相談の基本技術 インテークの重要性、傾聴・時間管理、電話での相談」
講義6は、原田敦史(堺市立健康福祉プラザ)による「ワークショップ」
講義7は、原田敦史(堺市立健康福祉プラザ)による「理解度確認」
基礎講習会終了後は、応用講習会と続きますが、こちらは同年でなくとも受講が可能で、業務に合わせて参加できる体制にしています。ただ連続して受講する人が多いようです。今年度も令和7年(2025年)2月に開催しており、多くの方に参加していただきました。
令和6年度情報化対応支援者研修会
― 相談支援コース・応用 ―
東京ヘレン・ケラー協会点字図書館 小倉芳枝
日盲社協情報サービス部会は2月13日(木)・14日(金)、7回目となる標記研修会を開催した。今回もZoomを活用したオンラインでの実施で、情報提供施設職員を中心に31名の参加があった。
1日目(2月13日)
講義1は、清水智子(日本視覚障害者団体連合)による「支援者のセルフケアと健康管理」
講義2は、白潟仁(システムギアビジョン)による「最新機器、最新情報提供(拡大機器を中心に)」
講義3は、道面由利香(横浜訓盲院生活訓練センター)による「相談者が求めること ニーズの把握を事例報告から」
講義4は、荒川和子(NPO法人目と心の健康相談室)による「目と心の健康相談室の紹介 目の不安と心に寄り添う取り組み」
講義5は、原田敦史(堺市立健康福祉プラザ視覚・聴覚障害者センター)による「記録の取り方、まとめ方 基本情報の収集と記載方法」
2日目(2月14日)
講義6は、小倉芳枝(筆者)「演習1 聞き上手になるための実践演習」
講義7は、金井政紀(日本盲導犬協会)による「盲導犬について申請方法、取得基準等について」
講義8は、中津大介(東京視覚障害者生活支援センター)による「演習2 実践演習 ケースの情報をもとに」
講義9は、研修会スタッフによる「理解度確認・意見交換・修了式」
まとめ
オンライン開催については例年同様、「交通費の負担がなく、受講できるのはとてもありがたい」「オンラインでもしっかり交流できるのだと思い、とてもよかった」等の好意的な感想が多く挙げられた。一方でZoomに慣れておらず、ブレイクアウトルームやチャット機能を用いた演習の際に戸惑ってしまったという声もあったことから、今後はそういった機能を使うことを事前にアナウンスすることを検討したい。
今回は受講者の7割ほどが情報提供施設職員、他は相談支援や訓練に関わる職種の方々だったが、講義内容については全体的に好評で「ちょっとした窓口対応、電話対応にも役立つことがたくさんあり、また視覚障害者に特化しているので現場に合っていて、この業界の人ならぜひ受けるべきと感じている」との声をいただいた。
視覚障害や支援方法について学ぶ機会はそう多くないため、本演習が現場職員の方々の学びと支援技術の見直しの場となるようにブラッシュアップしていきたい。
令和6年度ブロック別音訳指導員養成講習会・第17回音訳指導員認定試験
島根県西部視聴覚障害者情報センター 梨木 さやか
(1)ブロック別音訳指導員養成講習会
令和4年度(2022年度)より、音訳指導員認定講習会を「音訳指導員養成講習会カリキュラム」に基づき、各ブロックで行うこととなった。
音訳指導員養成講習会カリキュラム
1.視覚障がい者福祉概論
2.ボランティア養成概論
3.音声表現技術の指導法
4.処理技術の指導法
5.調査技術の指導法
6.校正技術の指導法
7.録音技術の指導法(選択科目)
8.デイジー編集技術の指導法(選択科目)
令和6年度(2024年度)は6ブロックで、各ブロックごとに実行委員を中心として運営し、対面による現地開催とオンラインによるリモート開催により下記の日程で実施した。
講習会開催日程
東北・新潟・北海道ブロック:11月12日~13日、現地開催
関東ブロック:11月14日~15日、現地開催
中部ブロック:11月25日~26日、現地開催
近畿ブロック:12月12日~13日、現地開催
中国・四国ブロック:12月5日~6日、Zoomによるオンライン開催
九州ブロック:11月7日~8日、現地およびZoomによるハイブリッド開催
(2)第17回音訳指導員認定試験
以上のブロック講習会修了者を対象として、下記の通り音訳指導員認定試験を行った。
前回(第16回)は新型コロナ感染症によりオンライン開催となったが、今回は令和7年(2025年)1月24日(金)会場を東京と大阪の下記2か所にて、現地開催した。そして、合格者には3月下旬に認定書を送付した。
【東京会場】日本点字図書館:東京都新宿区高田馬場1-23-4
【大阪会場】玉水記念館:大阪市西区江戸堀1-16-9
受験者は、東北・新潟・北海道ブロック21人、関東ブロック25人、中部ブロック37人、近畿ブロック12人、中国・四国ブロック14人、九州ブロック14人の総数123人で、合格者は75人(合格率60.9%)だった。
<新規会員施設紹介>
一般社団法人セルフサポートマネージメント
居宅同行援護事業所 エスエスピー
私たちは、障碍者の方の自立をサポート・マネージメントを目的に事業所の運営と様々なイベント活動等を行っています
【イベント内容】
・メイク教室 ・スキンケア教室
・ヨガ教室 ・浴衣着付け教室
・キッズヘアアレンジ&ママのワンポイ
ントメイク教室
・Seeing AIアプリ体験会(日本マイクロソフト株式会社と共催)
・Mixed?Realityと触覚技術についての
ユーザーヒアリング会(株式会社南国ソフト主催)
・iPhone講座~便利機能体験編~(株式会社NTTドコモと共催)
・障害年金相談会(社会保険労務士事務所と共催)
その他…
【居宅同行援護事業所】
家事援助や同行援護、通院介助や移動支援など、訪問系障害福祉サービス全般に対応しています。スタッフは全員、すべてのサービスに対応可能です。
障碍のある方、高齢の方の自立をサポートするため、ご自宅での掃除や調理などの家事のお手伝い、銀行や通院などの外出のお手伝いをいたします。
また、利用者の意向を反映し、適切な福祉サービス等が提供されるよう計画相談支援も行っています。これまでの豊富な利用計画の作成経験を生かしてよりよい生活が継続できるようお手伝いいたします。
一般社団法人セルフサポートマネージメント
〒176-0001
東京都練馬区練馬3-1-6-803
TEL/FAX:03-6914-7727
E-mail:s.1312002338@gmail.com
http://self-support-management.org
instagram : https://www.instagram.com/self support_management/
TikTok :https://www.tiktok.com/@ssm20110912
日盲社協事務局だより/編集後記
1.加盟施設変更情報
(1)新規入会 1施設
<自立支援施設部会>令和7年4月~
一般社団法人セルフサポートマネージメント
居宅同行援護事業所 エスエスピー
代表理事 石井暁子、所長 石井良実
〒176-0001東京都練馬区練馬3丁目1番6-803号
TEL/FAX:03-6914-7727
E-mail : s.1312002338@gmail.com
(2)退会 3 施設 令和6年度末付
<自立支援施設部会>
盲人自立センター陽光園
<盲人用具部会>
株式会社アメディア
株式会社エクシオテック
(3)住所変更 1 施設
<情報サービス部会>
小樽市点字図書館
新住所〒047-0008 小樽市築港11-1
ウイングベイ小樽1 番街4 階
小樽市総合福祉センター内
※電話・FAX、E-mail アドレスは変わらず
(4)法人理事長・施設長変更(敬称略)
<法人>
社会福祉法人ほくてん
新理事長後藤央光令和7 年4 月~
ゴトウヒサミツ
<情報サービス部会>
霊友会法友文庫点字図書館
新館長三浦一雄令和7 年4 月~
2.事務局からのお願い
(1)Zoomミーティングの貸出
Zoomミーティング利用希望施設は事務局宛にメール(nichimou.su@feel.ocn.ne.jp)で、使用希望日等をお申し込みください。
(2)ホームページ「部会別ページ」上で、会員施設名、法人名、住所・電話・FAX・E-mailおよびホームページのリンクを掲載しています。小誌では上記に加え、施設長変更も紹介しております。交代人事がありましたら、事務局(nichimou.su@feel.ocn.ne.jp)までお知らせください。
編集後記
本号の「わが施設の今」は休載いたします。
当初の執筆依頼では、「わが施設のいま」第15 回として「盲人福祉研究会」を予定し、さらに別途(特別寄稿)として「私と日盲社協― 次世代の障害者リーダー育成のために」を掲載する予定でした。しかし、送られてきた原稿は、ちょうどその二つの企画を合体させたような内容であり、しかも紙幅を大幅に超過する力作でした。そこで、内容的には申し分のないものでしたので、筆者の意図を尊重し、編集部では筆者の了解を得たうえで、一部を割愛し紙幅に収めることといたしました。
私事ながら、平成23 年(2011 年)より日盲社協広報委員長を務めてまいりましたが、齢70 を迎え、本年7 月末をもって東京ヘレン・ケラー協会の嘱託も終了となり、併せて日盲社協からも引退させていただくこととなりました。
本業のかたわらで十分にお役に立てたかは心もとないところですが、14 年間にわたるご支援に心より感謝申し上げます。
福山博拝
第17回 視覚障害者向け総合イベント
ふれてみよう! 日常サポートから最先端テクノロジーまで
サイトワールド 2025
サイトワールドは、最先端の技術・機器、日常用品、および、ユニバーサルデザイン(UD)製品等の展示会、講演会、学会発表、フォーラム、体験会等が催される、世界でも例を見ない視覚障害者のための総合イベントです。来場者一人ひとりが主役です。
日時:令和7年(2025年)10月16日(木)、17日(金)、18日(土)午前10時~午後4時30分(10月18日は午後4時まで)
会場:すみだ産業会館サンライズホール(JR・地下鉄半蔵門線 錦糸町駅前 丸井錦糸町店8・9階)東京都墨田区江東橋 3-9-10 墨田区丸井共同開発ビル
主催 サイトワールド実行委員会
〒169-0075 東京都新宿区高田馬場1-29-7-401(株)ラビット内
TEL:03-5292-5644 FAX:03-5292-5645
E-mail:sightworld-bj@gmail.com
※本誌は、大阪府民共済生活協同組合の助成により作成したものです。